「良いもの」と「毒」が同時にあっても
(マタイによる福音書13章24~30、36~43節)
毒麦は穂の粒が少なく、穂のヒゲが短いために、成長しきっていない「良い麦」と完全に区別はできません。完全に、決定的に両者が区別できるのは、穂が実りきった収穫の時です。畑の主人は、敵が夜来て毒麦を蒔いたことも、今毒麦だと思って抜いても間違うかもしれないことも、収穫の時には必ず両者がはっきりすることも、すべてを知り尽くしています。畑の主人は僕たちに、今は良い麦と毒麦を分離するな、と言います。なぜなら、間違っても一本でも良い麦を抜いてはならないからです。主人は良い麦の一本一本を、徹底して愛しているのです。そして主人は、すべての良い麦が成長して豊かな実りをもつことを待っているのです。
畑の僕たちは、良い麦も毒麦も共に存在している「現在」にしっかり立ち、良い麦の豊かな実りのために主人に仕えて働くことが求められています。そこには、すべてを知り尽くして計画をもっている主人に、信頼をもってひたすら仕えていく、畑の僕たちの生き方が示されています。
本日の福音書に記されている、良い麦と毒麦が共存している畑のたとえ話は、「この今の現実にどう取り組むのか?」ということを、私たちに問いかけています。
現実から離れず、今、神に信頼し、神に仕えて生きていくことが、私たちに求められています。