変わらなければ
(マタイによる福音書13章1~9、18~23節)
イエスは、蒔かれた種が四ヶ所の場所に落ちた出来事をたとえて、御言葉を聞いて悟る人のことを語ります。種を蒔く人が蒔いた種は、道端や石だらけで土の少ないところや茨の間に落ちました。それらの種は、鳥に食べられたり、枯れてしまったり、茨にふさがれて成長できなくなります。しかし、良い地に落ちた種は、何十倍にも実を結びます。神の国についての教えや神の御言葉を聞いて悟る人は、生きることにおいて何十倍にも豊かな実を結ぶ、とイエスは教えます。
イエスの活動していた2000年前のパレスチナ地方では、土地を耕す前にまず種を蒔き、その後に種を蒔いた所を耕す方法をとっていました。種を蒔く人は、とにかくすべての所に種を蒔き、その後、種を蒔いた所をすべて耕しました。道となっていた所、石だらけの所、茨の生えている所、種の発育にふさわしい所、そのすべてを耕しました。したがって、種を蒔く人は、その蒔く種の一つ一つがいつか豊かに実を結ぶようにと希望を託して蒔いているのです。イエスはこのたとえ話を語る中で、決して種が落ちた場所を問題にしているのではありません。種を蒔く人はどのような所に落ちた種にも、成長と収穫の希望を託して、種の落ちた所を後で耕す作業を予定しているのです。
種が落ちた所が問題ではありません。種が落ちた環境や境遇が問題ではないのなら、いったい何が問題なのでしょうか。それは、蒔かれて落ちた所がどんな所であろうと、そこを「良い土地」としているかどうか、です。どんな状況にあろうと「御言葉を聞いて悟る人」となることが求められています。私たちはまわりの状況に対して、何か前提をつくっていたり、決めつけていたり、あきらめていたり、可能性を放棄していることはないでしょうか。しかし神は、どのような時にも、どのような所にも、必ず豊かに実を結ぶ可能性と希望がある、と語ります。神が語るその愛と希望の御言葉を、私たちが受け入れるかどうか、私たちが受け入れて変わるかどうか、に事態はかかっています。