隠さないこと
(マタイによる福音書10章24節~33節)
関係を持たなくなることや断絶の始まりは、「隠す」ことからだと思います。思いを隠したり、事実を隠したり、真実を隠したりすることは簡単です。しかし、その後の方向は、本来的ではない偽りの流れとなります。何かを隠してしまうと、それが明るみにならないかと、心配が始まり、恐れが生じてきます。しかし今日の福音書で、イエスは、「人々を恐れてはならない。覆われているもので現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。」と教えます。すべては神に知られています。どんな偽りも不正も、不真実も、明らかにならないものはありません。神に信頼する者は、何も隠していません。偽りや不正が明らかにならないかと、恐れる生き方の側にはいません。むしろ真実が明らかになることを待ち望んでいます。だから私たちにイエスは、「人々を恐れてはならない。」と言います。恐れる必要も意味もないのです。すべてを知っておられる神に信頼して生きる者は、恐れることはありません。
日本語の「かくす(隠す)」という言葉は、「かくむ(囲む)」という言葉から生まれました。見えるべきものを、何かで囲んでへだてて、見えなくなることです。「隠す」とは、大きな労力をもって不自然な状況を意識的につづけていくことです。私たちが神のことを、イエスのことを、隠しているのであれば、本来的ではない不自然な状況に生きていることであり、私たちが生きている現実の状況に対しても、また神に対しても、「無関係」というものが忍び寄ってくるのです。イエスは言います。「わたしの仲間であると言い表しなさい」と。