「どちらを釈放してほしいのか」
マタイによる福音書第27章1節~54節
ドイツの作曲家、ヨハン・セバスチャン・バッハの作品に、「マタイ受難曲」があります。バッハはまさに本日朗読される聖書の箇所から霊感を受け、「マタイ受難曲」という偉大な大曲を作曲しました。私が初めてこの曲を演奏会で聴いた時のことですが、群集がイエスを「十字架につけろ」と叫び続ける場面の合唱と音楽が、なんと恐ろしい混乱した雰囲気なのだろうか、とショックを受けました。まさにイエスが裁判に引き渡された出来事は、イエスに対する裏切りと悪意、不正と策略という、混乱の中でなされました。本日のマタイによる福音書のイエスの受難の記事でも、このことが如実に現われています。聖書の記述の中に、「イエスを殺そうと相談した」「イエスを裏切った」「イエスを引き渡したのは、ねたみのため」「イエスを死刑に処してもらうようにと群集を説得した」「群集はますます激しく叫び続けた」「頭をたたき続けた」「イエスを十字架につけた」「ののしった」「侮辱した」と、言葉がこのように続きます。ここには正当な裁判がなされたという片鱗もありません。
イエスの裁判を担当した総督ピラトは、イエスを処刑することに反対でした。理由は3つありました。一つは、自分がローマ帝国の皇帝から支配を任されている地で、だれかを死刑という処罰で罰するような不祥事や事件を発生させたくなかったことです。それは自分の支配・管理の不行き届きとローマの中枢からみなされることだからです。イエスを処刑したくない二つめの理由は、自分の妻から「イエスに関係するな」と伝言を受けたからです。妻は夜、夢で、イエスについて随分苦しんだというのです。総督ピラトがイエスを処刑したくないもう一つの理由は、一番大きな問題でした。それは、人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからです。ピラトは最後までイエスに何の罪も見いだせませんでした。無実の者を処刑することは、その責任を自分が引き受けて、自分が処刑されるに値するほどの重罪でした。イエスを処刑したくないピラトは、最後の手段をとりました。だれがどうみても100パーセント死罪に値する、バラバという大罪人を、イエスと並べたのです。罪人二人が並べられて、どちらか一方が釈放されたなら、その決定は絶対的なものです。ピラトは、すべての人が大罪人と認めているバラバと、訴えられた罪の内容が明確ではないイエスとを並べました。そして、「どちらを釈放してほしいのか」と人々に問いました。100パーセント大罪人のバラバが当然赦されず、何の罪も見いだせないイエスが当然釈放される、とピラトは確信していました。しかし人々は、「バラバを」と言いました。そしてイエスを「十字架につけろ」と激しく叫び続けていきました。100パーセント大罪人で当然死罪に値するバラバが釈放され赦されるために、100パーセント無実なイエスが十字架にかけられて処刑される、という逆転が起こりました。当然死ぬべき者と定められた人が、その定めから救われて生きていくために、イエスが命をささげて死に至ったのです。
不正と混乱のあの裁判で、大罪人のバラバではなく、私たちがイエスと並べられたらどうなのでしょう。あの大罪人のバラバさえ釈放されたのです。まして私たちなら当然問題なく釈放される、と思っていないでしょうか。そして私たちが釈放されるために、イエスは十字架につけられるのです。