ほんとうの権威
(ヨハネによる福音書9章1~13、28~38節)
イエスは、生まれつき目が見えない人を癒しました。神の業がイエスをとおしてその人に現れ、その人は目が見えるようになったのです。しかし癒された彼を生まれたときから知っている人々は、生まれつき目が見えず、物乞いであった彼を、癒された今も、「彼」本人だとは認めません。また、彼が癒されたとは認めません。なぜなら、生まれつき目が見えず、物乞いであった彼は、決してその状況から変わることはあり得ない、と人々は考えていたからです。「決して変わることがあり得ない」という人々の考えが、イエスによってくつがえされたのです。しかし人々は、それを認めようとしません。見ようとしません。そして事実と真実の体験をしたその人に、何度も質問をくりかえし、「決して変わることがあり得ない」という自分たちの考えが正しいと確証するまで、延々と彼への尋問が続きます。それは自分たちが正しいのだ、という自分たちの権威にしがみつき、事実、真実が見えなくなっているのです。人々はさらに、彼を、律法の専門家だと自負しているファリサイ派という格上の権威のもとに連れて行きます。ファリサイ派の人々も自分たちの知識と自らの権威によって、彼を否定し、事実、真実を見ようとしません。ひたすら自分自身の体験した事実と真実を語る彼は、ファリサイ派の人々から追放されます。
彼が尋問に答えれば答えるほど、イエスに出会った彼の真実と、自分たちの権威にしがみつく人々の頑なさとが、ますます浮き彫りにされます。その過程で、彼はイエスに対しての呼び名を、「イエスという方」、「神のもとから来られた方」、「主」と変えていきます。イエスの癒しによって目が見えるようになったその人は、視力が回復したという出来事の中にとどまっていたのではありません。見るべきほんとうの真実に向き合ったのです。自分が生きていく上でいつも信じていくべき方、イエスこそ、私の主である、と彼は見いだしたのです。彼にイエスという権威が、神の業によって与えられたのです。「自分の権威」を引き合いにだし、持ちだし、振りかざすことは、間違った権威におおわれていることです。それはほんとうに大切な真実を自ら見えなくしていることなのです。ほんとうの権威は、神から与えられるものなのです。