(ヨハネによる福音書22:1-18)
マグダラのマリアは、週の初めの日の早朝、まだ暗いうちに墓に向かいました。彼女の心には、イエス様を失った悲しみと絶望が重くのしかかっていたことでしょう。
復活の朝が「まだ暗いうちに」始まったという福音書の記述は、私たちの信仰の歩みを象徴しているようです。信仰は、すべてがはっきり見える光の中ではなく、しばしば理解できない「暗がり」の中で始まります。
墓に着いたマリアは、石が取りのけられているのを見て混乱し、弟子たちに知らせます。しかし、弟子たちもまた、空っぽの墓を見て戸惑い、すぐには信じることができませんでした。
なぜ人は、たとえ神の業のただ中にあっても、信じることができないのでしょうか?それは、自分の理解を超える出来事に、心がついていかないからです。失望や悲しみの中では、復活の光さえ見えなくなってしまうのです。
マリアもまた、復活されたイエス様を目の前にしながら気づきませんでした。しかし、イエス様が「マリア」と名前を呼ばれたとき、彼女の目は開かれ、「ラボニ!(先生!)」と応答します。信じるとは、すべてを理解することではなく、主の呼びかけに応えることです。
私たちもまた、見ずに信じるよう招かれています。見えなくても、感じられなくても、主は共におられます。
復活の主は、今も私たちの名を呼び、暗闇の中から信仰の一歩へと招いておられるのです。マリアのように、私たちも「私は主を見ました」と証しする者とされていきましょう。
(執事 パウロ福永 澄)