神の下にあって
(マタイによる福音書4章1~11節)
本日の福音書の箇所では、悪魔の三つの誘惑の言葉が記録されています。しかしこの三つの誘惑は、共通しています。神の主導権を私たちに侵させようとしているのです。はじめに悪魔は、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」とイエスに言います。私たちの日毎の糧、パンは、神が私たちに与えて下さるのです。私たちが神から与えられるはずの生きる糧を、私たち自身でつくること。これは神の主導権を私たちが侵すことです。次に悪魔は言います。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。」と。あなたが高い所から飛び降りても、神があなたのために天使たちに命じてあなたを助けるだろうと、悪魔は言います。しかしこのことも神の主導権を侵すことです。もし悪魔の言うように私たちが行動するなら、それは、私たち自身で危機的な状況を意図的につくりだし、神に助けさせるという、神を操作することにほかなりません。これも神の主導権を否定し、私たち自身が神を支配的にとらえることです。悪魔は三度目に、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と語り、この世界の繁栄ぶりをすべて示して、イエスを誘惑します。神ではなく、悪魔にひれ伏して拝むことを、悪魔自身は求めます。これもまた、神の主導権を否定させることです。
悪魔は、私たちに神の主導権を侵害させ、私たちを「神より大切なもの」へと向けさせます。その悪魔の示す「神より大切なもの」とは何でしょうか。それは「私たち自身の主導権」を優越させようとすることです。「私ができる」「私たちができる」「私に権限がある」と、ますます私たちに確信させようと、悪魔は励ましているのです。
しかし、悪魔の誘惑の場にあって、イエスは、これら三つの悪魔の言葉に対して、すべて神自身の言葉で応答します。イエス自身も自分の主導権をもった応答はしません。イエスが悪魔に向って語ったその神自身の言葉は、神が私たちに命じている律法を記した、申命記から受けた言葉です。神の言葉が直接、悪魔の言葉に対抗するのです。「私が・・・」と自分が主導するのではなく、神が命じられ、神の言葉が聞こえ渡るところに、どこまでも常に私たちはいつづけることが求められています。