見事な姿へ向かって
(マタイによる福音書17章1~9節)
本日の主日に選ばれました福音書の箇所には、イエスが山の上で姿を変えられたことが記されています。これは「主の変容」といわれる出来事です。イエスの姿が弟子たちの目の前で変わり、イエスの顔は太陽のように輝き、イエスの服は光のように白くなりました。このことは、イエスがやがてエルサレムで十字架につけられ、死んで復活し、はっきりと神の栄光をあらわすことを、今あらかじめに予告する出来事です。大斎節において私たちは、復活日に向かって歩む日々で、イエスの十字架への道、イエスの受難を思い起こします。その大斎節の期間をむかえる直前の本日の主日に、あらかじめ私たちは、栄光のイエスの決定的な姿の予告を受けるのです。
本日の福音書にある、イエスの姿が「変わる」という箇所の、その「変わる」という言葉は、原語のギリシャ語で「メタモルフォオー」という単語です。それは、「もともとの本質はそのままでありながらも、現われるかたちは全く変わる」という意味です。蝶のさなぎは、いつしか美しい蝶に生まれ変わって、見事な姿に「変態」します。この生物学の「変態」という言葉は「メタモルフォオー」の概念を訳した言葉です。そして本日の聖書の箇所の「メタモルフォオー」は、受け身形の言葉で書かれており、「イエスの姿は<神によって>変えられた」という意味が強調されています。イエスはその姿を神によって変えられ、本来の栄光の姿をはっきりと示されました。
私たちも、神によって、本来のあるべき姿、本来のあるべき生き方へと、自らが変えられていくことが期待され、求められています。私たちは皆、神に造られ、愛され、この存在がふさわしいものとされています。私たちの教会もまた、神に祝福され、支えられ、この働きが大切なものとされています。本来のこのあるべき姿に、私たちは、私たちの教会は、さらにはっきりと変えられていくように、神は意図しておられるのです。
今週の水曜日から始まる大斎節の歩みをとおして、私たちがさらにはっきりと、神の栄光を現わす姿へと変えられていきますように、祈り求めてまいりましょう。蝶のさなぎが、見事な美しい蝶に変わっていくように。