神に向かう道
(マタイによる福音書3章1~12節)
イエス・キリストが公の宣教の活動を始める前に、ヨハネは荒れ野で、人々に悔い改めを求めていました。人々はヨハネのもとに来て、自らの罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けていました。そして人々はその洗礼によって、悔い改めに導かれていました。
このヨハネの生き方とその姿は、人々とはまったく異なっていました。ヨハネは徹底して「荒れ野」に身をおいて生きていたのです。それは、「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。」という聖書の記述からもわかります。荒れ野には、まったく人工的なものはありません。また社会的な組織や秩序もありません。煩雑さや過剰なものとは程遠い所です。荒れ野にあるのは、「自分の命」と「神に向かう心」だけです。その状況に生きるヨハネの姿は、かつて預言者イザヤが語った、「『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』と荒れ野に響く叫び声」そのものでした。洗礼者ヨハネは、これから実現する神の国と、そして、これから来られる神のみ子を迎え受け入れるために、神と自分とがつながる、その道をまっすぐにせよ、と私たちに求めます。
聖書の歴史的な舞台であった古代中近東では、「王の道」という道路が実在しました。広大な王国の領土内には多くの都市がありましたが、それぞれの都市からは、王のいる都まで、延々とまっすぐに続く整備された「王の道」がありました。その道には何の障害物もあってはならず、王のいる都まで最大限に速く到着するための交通の機能が整えられていました。
「自分の命」と「神に向かう心」だけが存在する荒れ野での生き方。その生き方の心構えで、心の道をまっすぐに神へ向ける。このあり方を、洗礼者ヨハネは人々に宣べ伝えました。神のみ子イエス・キリストのご降誕を迎えようとする私たちは、まさにこの「まっすぐな道」が求められています。