降臨節を迎える
(マタイによる福音書24章37~44節)
今日の聖書の箇所では、「目を覚ましていなさい」、「わきまえていなさい」、「用意していなさい」という三つの警告の言葉が記されています。そして「人の子」が来るという、神のこの世界への決定的な介入の時において、人ははっきりと二つの状況に分けられる、とイエスは言います。その裁きの時に、残される者と連れて行かれる者とにはっきりと分けられる、とその状況を述べます。イエスはそのことを、旧約聖書に記されている大洪水の物語を引用して教えられます。大洪水という神の裁きの時、人々はノアの箱舟に入って残った者と洪水にさらわれた者とに分けられました。この二者の違いはいったい何によるのでしょうか。それは、「事実を知っていること」と「気がつかなかったこと」との違いです。言い方をかえると、「目を覚まし」、「わきまえ」、「用意する」ことができるのは、気づいていないのではなく、「起こるその事実を知っている」からです。
「その事実を知っている」から「用意できる」のです。私たちは神のなさろうとする事実を知って、目を覚まし、わきまえ、用意しているでしょうか。本日から始まる降臨節を通して、これからクリスマスを迎えるにあたり、「神は生きて私たちに働きかけておられる」という、神の事実を知って、私たちは「目を覚まし」、「わきまえ」、「用意して」いなければなりません。何も気づかないまま、クリスマスを迎えるのであれば、それは年末の一大イベントを単に過ごしたことに過ぎず、神と共に生きるという恵みの現実に、私たちはしっかりと立つことができなくなります。
本日から始まる降臨節を通し、神の事実、クリスマスの事実を、私たちは新たにしっかりと知ることが求められています。