祈ること
(ルカによる福音書18章1~8a節)
イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを、弟子たちにたとえ話を語って教えました。本日の福音書の1節で「気を落とさずに」と記されている箇所のこの「気を落とす」という言葉は、聖書の原文のギリシア語で、「エグカコー」という単語が用いられています。これは、「ものごとを悪くする、ものごとを悪くとらえる」という意味から派生した言葉です。ものごとを悪くとらえたり悪く考えると祈らなくなり、祈らなければものごとの事態を悪くしていくことになります。だから、「エグカコーしないで」、「気を落とさないで」、絶えず祈らなければならない、とイエスは教えます。
イエスが宣教していた2000年前のユダヤでは、「1日に3回以上は神にくどくど祈るな」という掟がありました。祈りは、回数の問題ではなく、上辺の行為の姿の問題ではなく、誠実に、真に心から祈っているかどうかが、問われているのです。そのことを戒めるために、「1日に3回以上は神にくどくど祈るな」という掟がありました。しかし当時の多くの人々は、その掟にかこつけて、絶えず祈る、ということをなおざりにしていました。また、「絶えず」、「何度も」、「ひっきりなしに」などということは、わずらわしい、めんどうな気持ちをわき立たせる言葉でした。人々は、「1日に3回以上は神にくどくど祈るな」という掟と、「絶えず」という姿勢への否定的な見解のために、神に絶えず祈ることを、なおざりにしていたのです。
イエスが語る「やもめと裁判官」のたとえ話に登場するこのやもめは、神に絶えず祈ることをなおざりにしている人々の姿勢に対して、まったく正反対の姿を示します。「絶えず」、「何度も」、「ひっきりなしに」、やもめは裁判官に求めるのです。助けを求めなければ自分の状況が悪くなっていく、ということを知り尽くしての、行動なのです。このやもめの姿に、真の信仰のあり方を見ます。