捜し求める神
(ルカによる福音書15章1~10節)
本日の福音書では、見失った一匹の羊を捜し回ってそれを見つける羊飼いと、無くした銀貨一枚を捜して見つける女の、この二つのイエスが語るたとえ話が記されています。この二つのたとえ話には共通していることが三つあります。まず、見失った羊や無くした銀貨は見つけられるために何にもまして最優先に捜されているということです。羊飼いは九十九匹の他の羊を野原に残してまでも、見失った一匹を見つけ出すまで捜します。女は暗い家の中でともし火をつけて家中の物を片付けてまで、無くした銀貨を念入りに捜します。次に、見失った羊を見つけた羊飼いも無くした銀貨を見つけた女も、捜して見つけたら大きな喜びに溢れているということです。そして、羊飼いも女も捜しているものは一匹の羊、一枚の銀貨、というように、「一つ」を捜しているということです。
イエスのたとえ話や、聖書の記述のなかで、「一つ」という数字や表現にこめられている意味は、たとえ話を聞いている聞き手自身、聖書を読んでいる読み手自身に、「この<一つ>は、価値あるあなた自身の出来事を示している」ということです。
羊飼いも女も、失ったものを何にもまして最優先に回復しようと捜しました。聖書が書かれた原文のギリシア語で、羊に対して用いられている「見失った」という言葉も、銀貨に対して用いられている「無くした」という言葉も、ギリシア語では同じ単語の「アポルーミ」という言葉が使われています。この「アポルーミ」のもともとの意味は、「滅びる、消滅する」という意味です。たとえ滅んでも、消滅しても、それでもその失ったものを最優先に回復しようとする羊飼いと女がいます。そのすがたは、神の私たちに対するすがたそのものです。そして滅び、失ったものを見つけて回復した時、そこには大きな喜びがあるのです。
どんな私たちであっても、神は、私たち一人一人をかけがえのない価値ある者として、愛しておられるのです。この神に、私たちは立ち帰ることが求められているのです。