「今」
(ルカによる福音書12章49~56節)
本日の福音書でイエスは、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」「わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」と語ります。しかしイエスは、破滅や絶望をもたらすために来たのではありません。そうではなく、イエスが神のみ心を現すためにこの世界に来られたことは、この世界に生きる私たちがイエスをとおして神の光に照らされ、私たちの姿が「はっきりとされ」、私たちの生き方が「問いかけられる」ということです。それは、これまでのままでいい、としていた私たちに、火を投じられ、分裂が現れ、対立が起こってくることにもなります。
イエスはこのことを語った後、さらに、「どうして今の<時>を見分けることを知らないのか。」と言います。この言葉にある「時」とは、聖書の原文のギリシア語で、「カイロス」という単語が用いられており、その基本的な意味は、「二度とない、その時」です。それは「出会いの時」、「決断の時」「チャンス」「しおどき」とも訳せます。
私たちが「はっきりとされ」、「問いかけられる」時は、信仰の歩みにあって、「カイロス」の時です。それは私たちがより深く、豊かに生きていくための、「出会いの時」であり、「決断の時」であり、「チャンス」です。そして、私たちがその「カイロス」にある時、イエス自らが私たちのために、絶えず伴ない、守り、導いて下さるのです。その「カイロス」の時は、「今」ではないでしょうか。