いつも
(ルカによる福音書12章32~40節)
私たちには、直面する様々な出来事があります。そしてその出来事について前もってわきまえ、用意しているのか、あるいはそうでないのか、によって、その出来事の意味や豊かさが大きく異なってきます。「もっと準備していればよかった」「もっとよく知っておけばよかった」「わきまえていればよかった」という悔いが、出来事に直面した後で起こってくることは残念なことです。
神さまと私たちの関係も同様のことが言えます。神さまが私たちに絶えず恵みを与えて下さること、神さまがいつも私たちに働きかけて下さること、神さまが私たちを導いて下さることについて、私たちが目を覚まして、わきまえているならば、その神さまの恵みや働きかけや導きが、はっきりと私たち自身の力となっていきます。神さまの出来事が素通りしていくことはありません。
本日の福音書には、帰宅する主人を真夜中であろうと夜明けであろうと、<いつも>目を覚まして用意して待っている僕のたとえ話が記されています。この僕は、待っており(36節)、目を覚ましており(37節)、わきまえており(39節)、用意しています(40節)。この僕は、どんなに遅くなっても主人が必ず帰宅することを、[知って]おり、また[期待している]のです。だからこそ、<いつも>目を覚まし、わきまえ、用意し、待っているのです。
神さまの存在を[知り]、神さまに[期待している]私たちは、この僕と同じです。そしてこの僕のように神さまに向かって<いつも>目を覚まして生きる姿を、神さまに見られる者たちは幸いだ、と本日の福音書は語ります。その者たちに、神さまは僕となって仕えて下さっているのです。