それでも、祈り求める
(ルカによる福音書11章1~13節)
イエスは「主の祈り」を弟子たちに教えた後で、たとえ話を語りました。真夜中に旅行中の友達がある人のところに立ち寄りましたが、立ち寄られたその人は旅行中のその友達に出すパンがありません。そこでその人は近所の友達の家に行き、「友よ、パンを三つ貨してください。旅行で立ち寄った友達に出すものが何もないのです。」と頼み願いました。しかしその近所の家の友達は「真夜中に面倒をかけないでくれ。もう私たちは寝ている。」と言ってその願いを断ります。このたとえ話の最後にイエスは言います。「しかし、言っておく。この断った人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、<しつように>頼めば、起きて来て必要なものは何でもあたえるであろう。」
友達、知り合い、関係者だから、という縁故関係や義理人情で、願いや頼みが叶うこともあります。しかし本日の福音書の中で語られるイエスのたとえ話では、友達だから、という縁故関係や義理人情では通用しない状況が示されます。友達だからということではなく、<しつように>頼めば、願いが受け入れられる、とイエスは教えます。この<しつように>という言葉は、聖書の原文のギリシア語で、「アナイデイア」という単語が使われており、これは、「強情、恥も外聞もない、しぶとい、くどい」という意味です。これほどの熱心さで、私たちが神に頼み願い、祈り求めることを、神は私たちに求めておられるのです。神に対して、縁故関係や義理人情の期待をもって頼み向かうのではなく、本来は神によしとされず、神に断られる自分であるにもかかわらず、それでも、<しつように>神に祈り求めていくことのできる希望の生き方を、イエスは私たちに示し与えて下さいました。