イエスを受け入れる
(ルカによる福音書9章18~24節)
イエスは弟子たちに、「群集は、わたしのことを何者だと言っているか」と問い、弟子達は、群集や人々がイエスのことを、「洗礼者ヨハネ」「エリヤ」「昔の預言者の生き返り」と言っている、と答えます。人々は、イエスを偉大な者と認めてはいながらも、誰であるかの見解が一致しておらず、これまでの過去の歴史的な前例の人物をイエスに当てはめて、イエスをとらえています。
そしてイエスは弟子達に、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と質問し、「あなた自身は私をどういう者として信じるのか。」と弟子達一人一人に問いかけます。この問いかけに、弟子のペテロは、「神からのメシアです。」と答えました。しかし弟子であるペテロ達にとってのメシア(救い主)の理解は、支配者であるローマ帝国から自分達の国ユダヤを独立に導く、政治的指導者、社会的リーダーを意味していました。弟子達も、群集や人々と同じく、イエスを偉大な者と認めてはいながらも、自分達の願望や期待する英雄像にイエスを当てはめていました。
この弟子達の理解に対してイエスは、苦しみを受け、殺され、復活する、という自らのメシアの姿を語ります。すべての人を愛し、すべての人が救われるために苦しまれたメシアであるイエスの姿。この姿には、前例や当てはめるべき人物像はありません。
イエスは、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と言います。イエス・キリストを信じる私達の信仰は、自分がイエスについての知識に納得するとか、イエスについての出来事を肯定的に話すことができる、ということではありません。信仰とはイエスという一人の人を受け入れることです。自分の、ではなくイエスの生き方に従っていくことです。イエスは私達がただひたすらに従っていくべきメシア(救い主)なのです。