栄光は愛の中に
(ヨハネによる福音書13章31~35節)
イエスは、十字架につけられるために大祭司に引き渡される直前に、弟子達へ、十字架の出来事によって明らかになる「栄光」について語ります。イエスは自分自身が十字架の出来事によって「栄光」を受けると述べ、そして父なる神もそのイエスによって「栄光」を受け、また神もご自身の「栄光」をイエスにお与えになる、とイエスは語ります。「栄光」は十字架によってイエスに、「栄光」はイエスによって神に、「栄光」は神によってイエスに、ということが弟子達に明らかにされます。
イエスと神とが「栄光」によってつながるこの出来事は、イエスがひとり、十字架につけられるという受難と死をとおしてのみ実現されます。それゆえにイエスは弟子達に、「『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。」と言うのです。ユダヤ人たちも弟子達も、イエスの行く所には行けません。事実、ユダヤ人たちはイエスを否定し、殺意をいだき、弟子達もイエスから離れ去って行きます。このことをイエスは弟子達に前もって語り知らせているのです。
しかしイエスは、弟子達をいつまでもその状況に留めてはいません。イエスと神とが「栄光」によってつながるその出来事の中に、弟子達も生きていくことのできる希望を与えます。それがイエスの弟子達に与えた「新しい掟」です。それは「互いに愛し合いなさい。」という生き方です。イエスはひとり、十字架につけられていきます。しかしイエスから離れ残った弟子達が、実はイエスと共に生きていく確かな希望がある、とイエスは教えるのです。それはイエスが弟子達を愛したように弟子達が「互いに愛し合うこと」なのです。
神の栄光は、私たちが「互いに愛し合う」という生き方の中に現れ、その生き方のうちに、イエスが私たちと共におられるのです。