神に生かされる命
(ヨハネによる福音書10章22~30節)
イエスの語る命の言葉を受け入れないユダヤ人たちは、イエスを神への冒瀆者として訴えたい思いに満ちて、イエスの語る言葉を信じません。そして「いつまで、私たちに気をもませるのか。」と怒りと苦悩にとらわれます。「いつまで、私たちに気をもませるのか。」という彼らのこの発言は、聖書の原文では「いつまで、私たちの生命力を取り上げるのか。」という表現になっています。神は御子イエス・キリストを通して、私たち一人一人に、惜しみなく命の力を与えようとされています。その神の恵みを否定するユダヤ人たちは、まさに自分たちの生命力を取り上げられている状態です。
一方、イエスはそのユダヤ人たちに、イエスの声を聞き分ける羊についてのたとえを語ります。羊たちは自分たちを命の草と水のありかに導く、自分たちの良い羊飼いの声を聞き分けます。なぜなら、羊たちは命を求めているからです。命を求める者は、神の言葉、神の声を聞き分け、そのことを通して生かされようと願うのです。そう願いなさい、とイエスは私たちに語りかけます。
神は「言葉」をもって私たちに臨在されます。イエス・キリストは、神の言葉、命の言葉そのものとして、私たちに語りかけるのです。なぜなら、「わたしと父とは一つである。」(30節)からです。