道の意味
(マルコによる福音書10章46~52節)
日本語の道(みち)という言葉は、「御地又(みちまた)」の省略形からできました。地又(ちまた)は道が2つに分かれていくY字路のことで、その分かれ目の所に道の神様が宿っていて、道を行く人の運命を掌っている、と考えられていました。その神聖な地又に御(み)が付き、御地又(みちまた)となり、そして省略形の「みち」という言葉ができました。ですから、みち(道)は本来、神聖な所と考えられてきました。一方、英語では道のことをWAY(ウェイ)といいます。この「ウェイ」の[ウェ]という意味は、「重さ」を表す言葉です。[ウェ]が使われている他の言葉があります。WAGON(ウァゴン¬=荷車)は重たい荷物を運ぶ車であり、WEIGHT(ウェイトゥ=重量)は文字通り重さの意味です。ですから英語のWAY(ウェイ)は、重たいものや重みのある責任を担って進む、大切な所、という意味です。日本語でも英語でも、道は、とても重要な所という意味を含みます。それは世界中の言葉でも同じです。神聖な所であり、とても重要な所です。そして人はそこを進みます。
今日の福音書では、道端に座っているバルティマイという盲人の物乞いが、イエスに癒されて見えるようになり、イエスの進んで行く道を共に歩み始めた、ということが記されています。バルティマイにとっては、皆から疎外され、追い詰められた場所としてあった道が、イエスと出会って、自分が喜びをもって進んで行くべき唯一の場所へと変えられていきます。イエスは、すべての人に、生きていくべき道の真の意味を与えます。それは神と共に生きていくという、希望と喜びです。道のこの真の意味を全うするために、イエスは自らの命をすべての人のためにささげるという、十字架への道を進まれたのです。