「名」と「命」
(マルコによる福音書9章38~43、45、47~48節)
イエスの名を使って悪霊を追い出している者に対して、イエスの弟子のヨハネは、自分達に従わないという理由で、悪霊を追い出しているその者に、その行為をやめさせようとしました。しかしイエスは、「やめさせてはならない」とヨハネに言います。イエスの弟子であるヨハネ達は、「イエスの名」を自分たちだけで独占しようとしていました。「イエスの名」を弟子である自分たちは使えるが、自分たち以外の者は使ってはならない、と考えていたのです。しかし「イエスの名」を信じ、イエスの働きに仕えていこうとする者は、皆、同じ仲間なのです。「イエスの名」を信じるとは、それほど大きな意味があるのです。「イエスの名」とはイエスご自身そのものにほかなりません。
一方、「イエスの名」を信じる者をつまずかせる者、あるいは「イエスの名」を悪用する者は、「大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」と、イエスは厳しいいましめを語ります。
「命名」という言葉があります。それは生れた人の「命」に「名」をつけることです。また同時にいろいろ考えられて決められた「名」に生れた人の「命」をこめることです。「名」と「命」は一体です。このように「名」は大切なものとされていますが、「イエスの名」はまさに私たちを真理に導く「命」なのです。