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「十字架という鍵」

(ルカによる福音書22:39−23:56)
歓呼のうちにイエスをエルサレムに迎えた民衆は、たった一週間後、同じイエスを「殺せ!」と叫びます。人間の恐ろしさ、為政者の無責任さ、裏切り。闇に支配される人間の姿が十字架への道程で露わになります。ゲッセマネで捉えられる時、「今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」とイエスは言います。闇の力とはどのようなものでしょか。イエスは十字架上で祈ります。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
これほど恵みあふれる言葉あるでしょうか。人は分からぬままに神から離れ、イエスを「十字架につけろ!」と叫びます。これが闇の恐ろしさです。闇の力は、無自覚なままに他者を殺させるほどに、人をコントロールします。残念ながら、人はその力に対抗することができません。十字架への道のりで露わにされる人間の姿が、そのことを表しています。しかし、イエスはその人間の弱さも罪深さもすべて引き受けて、その人間のために十字架上で祈ってくださったのです。
 イエスが十字架に上られたとき、神の介入が始まります。世界が闇に包まれ、太陽は働きをやめました。この闇は悪の象徴ではなく、神の介入を表します。裂かれた神殿の幕は、至聖所とその手前の部分を仕切っていたものです。かつて大祭司だけが年に一度、この幕を通って至聖所に入ることができました。しかし今、隔ては裂かれ、すべての人が神にまみえる至聖所へと招かれたのです。これにより人は無自覚なままに悪に支配されてしまう弱き存在でありながら、神と共に生きる道が開かれました。こうして、イエスは十字架の上で神と人との間に立ち、神と私たちの関係を結んでくださいました。つまり十字架は神と私たちの関係を開く鍵だったのです。そしてまさに、イエスは神と人とを結ぶ大祭司であり、神からの権威をまとう真の王、救い主だったのです。
私たちはこの十字架をこそ見つめましょう。そこに神と等しい者でありながら、人となり、へりくだって、死に至るまで神に従順であられた方がおられるからです。そのお姿を見る時、悪の力に支配されてしまう私たちの頑なさや弱さは砕かれ、神の愛をいただく心が与えられます。神の愛とは、ご自分の独り子の命を差し出してまでも、ご自分と人が共に生きる道を開いてくださるほどの愛です。み手を広げて神に自らの命を差し出したイエスは、神との愛の交わりへ、今も手を広げて私たちを招き続けておられます。隔ては既に取り去られています。
(司祭ヨセフ太田信三)

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