福音の自由
(マルコによる福音書2章23~28節)
本日の福音書では、イエスとファリサイ派の人々との、安息日に関する論争が示されます。安息日についての掟は、神がモーセを通してイスラエルの民に与えた律法である「十戒」の第4番目の掟です。安息日は、神が天地創造の業を六日かけて行い、七日目に休まれたことを基として、人も六日間働いて七日目に安息日として休まなければならないことを定めています。その理由は、「働いて休む時間を持つこと」と「天地創造の神がイスラエルの民をエジプトでの奴隷の苦しみから救ったことを思い起こす時間を持つこと」です。
この安息日の掟は、イエスの活動した時代にあっては、イスラエルの伝統的な教えや律法学者たちの解釈によって、安息日にしてはならないことが数多く、事細かに定められている状況となっていました。そこではもはや、安息日を定めた神のみ心は忘れ去られていました。イエスを非難したい律法学者であるファリサイ派の人々は、ある安息日に、イエスに従って歩いている弟子たちが麦畑で麦の穂を摘み始めているのを見て、イエスを非難します。弟子たちは空腹であったので、麦畑を歩きながら、手で麦の穂を摘み、指で穂の殻を擦り取って、麦を食べていました。その行為は安息日でなかったなら何ら問題とはされませんでした。しかしその日は安息日であり、ファリサイ派の人々は、麦の穂を摘むことは収穫の労働であり、穂の殻を擦り取ることは脱穀の労働であるから、安息日に労働を禁じている律法を破っている、と非難します。
このファリサイ派の人々の非難に対して、イエスは、イスラエルの偉大な王ダビデのかつての出来事を述べます。それは、ダビデが律法の定めに反して、祭司の他はだれも食べてはならない供えのパンを、家来と共に食べたにもかかわらず、神はそのことをお許しになった出来事です。神は、ダビデを通して行うご自身のご計画とみ心を成すために、本来なら律法に反することも、ダビデにお許しになったのです。ここに、律法に優る福音の自由があります。そしてイエスは、「人の子は安息日の主でもある。」と宣言します。イエスご自身が律法に先立ち、伝統に先立ち、神より人に与えられた掟に先立つ、最も高い権威を持っている持ち主であることを宣言します。そのイエスが与えられる福音の自由に、私たちは生かされているのです。