恵みが、今、ここに
(ヨハネによる福音書6章4~15節)
食べるものを何ももたない大勢の群衆が、イエスと弟子たちの方へ近づいて来ました。イエスは「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と弟子のフィリポにたずねます。フィリポは、二百デナリオンという大金でパンを買っても足りないでしょう、と言います。弟子のアンデレは、パン五つと魚二匹を持っている少年がいるけれども何の役にもたたないでしょう、と言います。
フィリポとアンデレの、それぞれの言葉を裏返せば、「<もし>パンを大量に買える大金があればよいのですが」「<もし>みんながこの少年のようにパンや魚を持っていればよいのですが」という、現実に対してあきらめている言葉です。しかしイエスは、その大勢の人々をその「現実」の場に座らせます。そして、その少年の持っている、「現実」にあるパンと魚を用いて、そのすべての人々が満腹するまで、分け与えられたのです。
「もし~ならばいいのに」という仮定法の気持ちをもって、現実をあきらめている弟子たちがいます。しかしイエスは、けっして現実から離れません。どこまでも現実にあって、現実のものを用い、感謝し、祈り、奇跡を行い、人々に恵みを与えます。イエスと共に歩もうと願う信仰においては、「もし~ならいいのに」「もし~ならよかったのに」という仮定法の言葉はありません。イエスは、まさに今、私たちと共に「現実」を歩んでおられ、イエス自らが私たちの命のパンとなって、私たちを養って下さるのです。神の恵みが、今、ここにあります。