聖霊に浸される
(マルコによる福音書1章7~11節)
本日の主日は、主イエスが洗礼を受けられた出来事を覚え、その同じ洗礼によって私たちが主イエスと共に生かされていることをあらためて確認する祝日に定められています。
教会の長い歴史のその初めから、洗礼という行いは、決して中断することなく続いてきました。キリスト教の様々な伝統的なものの優先が変わろうとも、神学が変わろうとも、礼拝についての考えが変わろうとも、宗教改革が起ころうとも、「洗礼」は変わりません。「イエスの名によって」「イエスの命に与るため」の洗礼は、人がイエス・キリストと共に歩む生き方の、まさに「原点」です。
日本語で「洗礼」と表記するその漢字の中に、「洗」という文字があります。また洗礼という言葉は聖書の原語で「バプテスマ」といい、それは「浸す」という意味です。洗う、浸すというと、水を連想し、私たちの感覚では、洗礼は罪を洗うことというイメージだけが意識しがちですが、実はそれは狭いイメージです。「バプテスマ」という言葉は「浸す」という意味ですが、教会が成立した時代もふくめて古代の人々は、水だけではなく、火や風や息、また神の息である聖霊も、液体のように理解していました。そのような揺れ動く、流動的なものすべてを、液体のように何かを洗ったり、浸したり、何かにしみ込んで浸透していく「液体的なもの」ととらえていたのです。つまり「洗礼(バプテスマ=浸す)」は本来、水で洗うというイメージよりも、むしろそれ以上に、聖霊(神の息)が体と心にしみ込み、浸透してくる、というとらえ方が強かったのだと思います。
洗礼者ヨハネは、罪を洗い清める洗礼を施していました。イエスがヨハネからその洗礼を受けられると、聖霊がイエスご自身に降ってきました。洗礼は、罪を清め、神の力である聖霊を受けることによって、自らが新たに生まれ変わるための、キリスト教の大切な行いです。そして洗礼を受けるということは、洗礼を受けられたイエスの姿に自分自身を合わせ、イエスが復活して現わされたその永遠の命に、自分自身も与って歩むことです。