「悪魔の誘惑」
(ルカによる福音書4:1-13)
2025年3月5日(灰の水曜日)よりキリストの受難を覚えてイースターまでの40日間を過ごす大斎節が始まりました。初代教会(2世紀から3世紀)では、洗礼をイースターのときに実施する習慣が生まれました。そして、イースターまでの40日間、キリストが荒野で悪魔から誘惑を受けながらも退けていった話に倣い、洗礼志願者は祈りと断食を通してイースターまでの日々、歩んでいったと言われています。
かつての洗礼志願者たちが倣った、キリストの荒野での40日間の話がきょうの福音書の箇所に現れています。悪魔は飢えと欲をかきたてる話題をキリストに投げかけ、そして、神のみ子であるキリストへ神の計画(キリストの受難と復活)を揺さぶる行動を促します。この箇所をわたしたちが読むとき、キリストを自分に置き換えると悪魔の業の厳しさを覚えることでしょう。
わたしたちが命を繋ぐために与えられる食べ物、そして、わたしたちが日々の生活で享受している数々の物や出来事はすべて神さまから与えられていることということを覚えます。わたしたちは自立的にこの世で過ごすとき、「すべてのことは神さまが与えてくださること」という視点を欠いてしまうことが多々あります。
20世紀の著名なイギリス人作家であったC.S.ルイスは“The Screwtape Letters”(和訳のタイトル「悪魔の手紙」ベテラン悪魔のスクルーテープが新米悪魔ワームウッドにキリスト者を誘惑するための数々の指南を与える物語)のなかで、「人間は単なる不運には立腹しないが、権利侵害と考えられる不運には立腹する・・・彼を怒らせるのは、彼が自分の時間を自分自身のものと思い、それが盗まれたと感ずるからである。それだから君は、『わたしの時間はわたしのものである』という奇妙な想定が、彼の心から逃げ出さないよう極力警戒しなければならい。」(森安綾。蜂谷昭雄訳)と綴っています。
身に覚えのある人がほとんどではないでしょうか?あらためて「すべてのことは神さまが与えてくださること」ということをリマインドして参りましょう。
(司祭ウイリアムズ藤田 誠)