人と人とが、神と共に
(マタイによる福音書18章15~20節)
本日の福音書では、兄弟が罪を犯した場合、願い事を求め祈る場合、集まる場合、と三つの状況が述べられています。
罪を犯したものは、相手の忠告によって悔い改めることができ、またはほかの第三者の証言によってその罪が明確になることが可能になり、また教会という主の家族の仲間たちによってその人自身の罪が正されます。自分だけという単独ではなく、第二者、第三者との関係によって、自分が立ち直されていくのです。人と人との関係はそれほど重要で、大切で、力があります。
そして自分が一人だけの単独ではなく、他者と二人で心を一つにして、天の父に祈り求める時、その二人の願いは父なる神に聞き入れられる、とイエスは教えます。
さらに二人または三人がイエスと共にいることを願いつつ集まる時、そこにイエスが確かに共におられる、と教えます。人と人が共に関わる、ということは、それほど神とイエスに直結しえることであり、力があり、神聖なことなのです。
本日の福音書に記されるこれら三つの、どの状況においても、自分と共に、自分以外のほかの人の存在が問題とされます。人は自分一人で決して生きていくことができません。そして本日の福音書に記されているイエスの言葉をとおして、私たちの、単独ではない人と人との二者、またはそれ以上の者との関係は、とても重要であり、神聖であり、力があるものなのだ、ということを私たちは知らされます。
人と人とが関わり合う場面はこの地上に無限にあります。その一つ一つが、かけがえのない大切なものであることを、イエスは私たちに教えています。そして、人と人との関わり合いの出来事の中に、神とイエスを招き受け入れる時、その人と人とが関わり合う出来事は、さらに豊かなものとなって喜びに深められるのです。