「言は肉となって、私たちの間に宿った」
(ヨハネによる福音書1:10~18)
ヨハネによる福音書の第1章は、初めてそれに触れる方にとっては難しい表現が頻出します。まず、冒頭で「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(ヨハネ1:1)とありますが、著者が何を伝えたいのか、この文章そのままだと、わたしたちの経験則だけでは理解することができません。よって、いままで、わたしたちの先輩たちはこの言葉を解釈することに努めてきました。人間の行なうことなので、その解釈に絶対的なことを与えることは避けなければなりませんが、神さまのみ心である「愛と平和」をこの世で人々が表わすためには参考になります。
この冒頭箇所をこのように訳した人がいます。「はじめから、『ことば』である方は、いた。『ことば』である方は、神のもとにいた。『ことば』である方は、神であった。」(本田哲郎訳)ここで、わたしたちは「ことば」とは神さまのことだったのかと理解します。
そして、今回の聖書箇所の最初にある「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。」を「その方は、この世に、いた。この世は、その方によって成っているのに、この世はその方をみとめなかった。」(本田哲郎訳)と訳します。また、「言は肉となって、私たちの間に宿った。」(ヨハネ1:14)を「『ことば』である方は、生身の人間となってわたしたちのあいだに住まいをさだめていた」(本田哲郎訳)と訳します。
ここからは教会に繋がっている人でないと理解は難しくなるのですが、「言」とは神さまのみ子であるイエス・キリストのことを著者は言いたかったのだと理解します。
わたしたちはイエス・キリストに物理的に会ったことはありませんが、イエス・キリストの「言葉と行ない」を証言している聖書の中の福音書やさまざまな書簡を通して、人となられた神さまのみ子である、救い主、イエス・キリストの「言」に出会うことができます。
このことを知らせてくれたヨハネ福音書の著者、そして、わたしたちが理解できるようにさまざまな訳をこの世に出してくださった方々に感謝するとともに、このような神さまのお導きに感謝いたします。
(執事ウイリアムズ藤田誠)