「民衆はメシアを待ち望む」
(ルカによる福音書3:7~18)
洗礼者ヨハネのところにはさまざまな背景を持つ人々が悔い改めの洗礼を受けるべく集まりました。それは、群衆と表される人々であり、徴税人であり、兵士たちでした。とくに徴税人と兵士たちはユダヤ人社会においてそれを管理するローマ(異邦人)の人々に仕える罪ある人々とまわり(ユダヤ人)から言われる宿命を背負って生きていました。それは精神的にきつい生き方を強いられていたと言ってもよいでしょう。そのような彼らが洗礼者ヨハネに「私たちはどうすればよいのですか」と尋ねるのでした(群衆もまた同じく尋ねます)。
洗礼者ヨハネは群衆に「下着を二枚持っている者は、持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答え、徴税人には「規定以上のものは取り立てるな」と言い、兵士には「誰からも金をゆすったり、だましと取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言いました。
洗礼者ヨハネはまわりからメシア(救い主)ではないかと思われます。洗礼者ヨハネは悔い改めの洗礼を彼らに与えるとき、彼らの苦悩を共にしたのだと思います。なぜならば、洗礼者ヨハネは彼らに自分の職業をやめさせようとはしなかったからです。洗礼者ヨハネは彼らの生きづらさに心を寄せます。彼らの現実は容易には変えられない(仕事をやめるという)がせめて、神さまへ向かう方向として、持たない者に分ける心、規定以上のものを取り立てない配慮、与えられている給料で恵みと感じられるような謙遜な生き方を勧めるのでした。
「喜びの主日」と言われる降臨節第3主日、私たちは洗礼者ヨハネと群衆、徴税人、兵士とのやりとりのなかで、あらためて、隣人との関わりのなかで救い主がお生まれになる、その喜びを分かち合うように主から招かれていることに感謝したいと思います。
(執事ウイリアムズ藤田 誠)