「何をしてほしいのか」
(マルコによる福音書10:46-52)
先週の主日、ゼべタイの子ヤコブとヨハネはイエスから「何をしてほしいのか」と尋ねられたとき、「栄光をお受けになるとき、私どもの一人を先生の右に、一人を左に座らせてください。」と答えました。
今回の福音書の物語において、イエスと弟子たちはバルティマイという盲人にエリコを出発してから、ある道端で出会いますが、この場面でもイエスは出会った者(バルティマイ)に「何をしてほしいのか」と尋ねます。
バルティマイは「先生、また見えるようになることです」とイエスに答えました。もともと視力があった人が盲目になるということ、これは当事者にしか分からない思いがあります。彼が、また、見えるようになりたいとイエスに告白した思いは、どのような気持ちから表れたのでしょうか?
ヨハネによる福音書第9章において、弟子たちは盲目の人のことで、イエスに「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪をおかしたからですか。本人ですか。それとも両親ですか」と尋ねます。
盲目の人は自分、または家族が罪を侵したゆえと信じていた人が、当時、多くいたことを考えると、バルティマイが心底、「目が見えるようになりたい」と思ったのは盲目ゆえの身体的辛さとともに、周囲からの理解が得られなく「罪人」のレッテルを貼られた苦しみからの解放されたい願いも含まれていたことでしょう。
バルティマイがイエスのところに来たとき、イエスが立ち止まり、「あの人を呼んで来なさい」とその場にいた人々へ伝えます。そして、それを聞いた人々はバルティマイに対して「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」と声をかけました。
きょうの福音書の物語を通して、2点注目したい点があります。1点目は、私たちは、神さまに「何をしてほしい」と願うのか?2点目は「安心しなさい。・・・」と盲人に声をかけた人々の姿勢です。この2点をきょうのよい知らせとして心に留めたいと思います。
(執事ウイリアムズ藤田 誠)