ホーム

「何をしてほしいのか」

「何をしてほしいのか」
(マルコによる福音書10:35-45)
 イエスは福音書(ヨハネを除く)のなかで三度、ご自分の死と復活について弟子たちへ語ります。一度目はイエスが弟子たちへ「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか。」と問いかけた際、ペトロが「あなたは、メシアです。」とイエスへ告白したときです。二度目は汚れた霊に取りつかれ子どもをイエスが癒した後、弟子たちとともにガリラヤを通っているときです。そして、三度目は財産のある者が神の国へ入ることが難しいということを弟子たちへ語った後、ペトロが「このとおり、私たちは何もかも捨てて、あなたに従って参りました」とイエスへ訴えかけたときでした。
 この一連の流れを通して、弟子たちはイエスがこの先に受ける出来事を彼らなりに理解しようと努めました。その思いは、イエスへお願いがあることを直訴したゼベダイの子ヤコブとヨハネとイエスとのやり取りのなかで伺い知ることができます。ゼベダイの子ヤコブとヨハネはイエスに言いました。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」すると、イエスは「何をしてほしいのか」と彼らに応えます。そこで、この二人はイエスに言いました。「栄光をお受けになるとき、私どもの一人を先生の右に、一人を左に座らせてください。」
 ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、イエスがこの先、長老、祭司長、律法学者たちから受ける迫害によって殺されてしまうという受難そのものに対して意味を見出すことはできませんでしたが、神がきっとイエスに何かしらの力を与えて、イエスが受難を払拭し、イエスは神から栄光を受けるに違いないと考えました。そのとき、自分たちもイエスが受ける神からの栄光にあやかりたいと願いました。しかし、イエスはなぜ受難の道を辿ることになったのか、そこに私たちが留まらない限りイエスが神から受ける栄光の意味を見出すことはできません。弟子たちはイエスが十字架に付けられて死ぬ前に受難の意味を知ることはできませんでした。その意味はこの物語でイエスが最後に弟子たちへ語った「人の子は、仕えるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」という言葉に表れます。
 このイエスの言葉を心に留めつつ、イエスが弟子たちへ尋ねた「何をしてほしいのか」という問いへの応えを、私たち自身も祈りのなかで求めてて参りましょう。きっと神は出来事を通して私たちに応じてくださいます。
(執事ウイリアムズ藤田 誠)

礼拝案内 Service

日曜日(第一日曜日を除く)
Sunday(except for first Sunday)

7:30 聖餐式 (Holy Communion)
9:30 日曜学校 (Sunday School)
10:30 聖餐式 (Holy Communion)
17:00 夕の礼拝 (Evening Service)

第一日曜日 first Sunday
9:30 日曜学校 (Sunday School)
10:30 朝の礼拝 (Morning Service)
17:00 夕の礼拝 (Evening Service)

■10:30からの礼拝には手話通訳があります。

聖日 Holy Day
7:30 聖餐式 (Holy Communion)

アクセス・地図 Access/Map

目白聖公会
〒161-0033 東京都新宿区下落合3-19-4
3-19-4, Shimoochiai, Shinjuku-ku, Tokyo, 161-0033, Japan
TEL:03-3951-5010
FAX:03-3951-5120

PAGE TOP