「子どものように神の国を受け入れる」
(マルコによる福音書10:2-16)
きょうの福音で語られていることは、性別にかかわらず、人は神さまが創られた尊い存在ということです。イエスはファリサイ派の人々から「夫が妻を離縁することは許されているでしょうか」と問われます。ここでは、主語が「夫」になっていて、彼らのなかに「妻が夫を離縁して」という発想はありません。当時のイスラエル社会において女性が一人で暮らしていくのは困難であり、夫を亡くした妻は再婚を勧められました。
イエスは「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」とファリサイ派の人々に言ったあと、離縁について尋ねてきた弟子たちに、夫から妻を離縁する伝統的なことを語る一方において、妻が夫を離縁することに触れたのでした。
どちらのケースもイエスは基本的には離縁を勧めてはいないのですが、今まで、夫の所有として考えられていた妻の存在を夫と対等な位置へ置いたことは画期的な考えだったと思います。
イエスの心のなかには、人は神の似姿として創られた尊い存在であり、その存在には序列がないという意識があったと思います。このようなイエスの姿勢は後代の教会へ引き継がれていったことがテモテへの手紙一5:1~16を読むと伺えます。後代の教会はイエスが十字架に付けられて死に、そして、三日目に神によって復活させられたことで、起こったキリスト者のグループです。そこでは、再婚をせず、「やもめ」として教会で祈りを中心にして生きることを決めた女性たちを教会の人たちは大切にしてゆきました。
きょうの離縁に関する物語のあとに、イエスが子どもを大切にする場面が語られます。子どももまた、女性と同様に当時のイスラエル社会では尊重されていなかった存在です。イエスは子どもにも序列を付けず、むしろ、子どものように素直な心をもって神さまからの恵みを受け入れられる人こそ、神の国へ招かれていることを語ります。さまざまな思いを置いて、神さまへ素直に心を向けたいと思います。
(執事ウイリアムズ藤田 誠)