「自分自身の内に塩を持ちなさい」
(マルコによる福音書9:38-50)
キリスト者はイエス・キリストのみ名によって日々、お祈りをします。このイエス・キリストの名によって祈ることで、すべての出来事は神さまのいつくしみのなかに置かれるといってよいと思います。
いまを生きるキリスト者でイエス・キリストの名によって祈る人に対して、嫌な思いをする人はあまりいないと思うのですが、イエスが生きた時代、イエス・キリストの名によって、さまざまなことで苦労して病んでしまった人を癒すグループをなんとイエス・キリストの直弟子たちがやめさせたと言うのですから驚きます(マルコ9:38の場面がそうです)。
しかし、わたしたちはそのような弟子たちを「何と心の狭い人たちだ」と裁くことはできないと思います。なぜならば、教会のなかでさまざまな奉仕グループがありますが、自分たちこそが苦しんでいる人に寄り添っている。あのグループは配慮が足りないと他を評価する場面をしばしば見受けますし、また、わたし自身もそのようなことに陥ることがあります。
イエスが「また、私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、ろばの挽く石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまうほうがはるかによい。」(マルコ9:42)と言うようにイエスを信ずる者をつまずかせる者は神さまの恵みから遠く離れてしまうことをイエスは弟子たちに示唆します。
そして、イエスは最後に「人は皆、火で塩気を付けられねばならない。・・・自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」(マルコ9:49-50)と弟子たちへ語ります。このイエスの言葉のなかの「そして」というところをカトリックの本田哲郎神父さんは「そうすれば」と訳しています。自分自身のうちに神さまからの愛の塩を持たせて頂けたとき、はじめて、わたしたちは互いに平和に暮らせるということでしょうか。
(執事ウイリアムズ藤田 誠)