「すべての人に仕える者」
(マルコによる福音書9:30-37)
イエスが2回目の受難予告を弟子たちに伝えました。それは、「人の子は人々の手に渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」という言葉のことです。1回目のときは、その真実にペトロの心が耐えられず、ペトロはイエスのことをいさめました。そして、ペトロは「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人のことを思っている。」とイエスに叱られてしまいました。
今回、2回目の受難予告のとき、弟子たちはその真実に向き合うことができなく、「その言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。」という様子だったと福音記者マルコは伝えています。
「人の子が人の手に渡されて殺される」ということが何を意味するのか?というと、「人の子」は世を救う「メシア」なのではないか?という思想が紀元前2世紀からイエスが生きた時代にはあったので、救い主であるメシアが人の手に渡されて殺されるということは、救いを待ち望む人にとっては絶望的な出来事になってしまうので、そのことに向き合う勇気は弟子たちにはなかったということになるのだと思います。
それに向き合えなかった弟子たちが辿り着いた出来事が「誰が一番偉いか?」ということでした。これは、弟子たち自身、無自覚のうちに現実逃避に走ったということなのだと思います。
メシアが人の手に渡されて殺されるとイエスが言うなかで、「誰が一番偉いのか?」という流れは、その物語を目にする人の多くは、彼らの会話が成立していないということを感じることでしょう。
私たちも人との対話のなかで、厳しい現実を突きつけられたとき、話を逸らして、その会話がチグハグになるという経験をたくさんしてきていることと思います。
このような厳しい現実と向き合うチャンスとして「すべての人に仕える者になりなさい」というイエスからのみ言葉があります。
仕える相手を選ばないというメッセージです。その仕える相手はさまざまな面で支えが必要な小さな子どもかもしれません、また、会話が成立しない脆さをかかえている人かもしれません、そして、自分が話しづらい人なのかもしれません。そこに向き合うことが少しでもできたとき、わたしたちはイエスがわたしたちの罪のために付けられた十字架の意味の何かを受け取れるのかもしれません。
(執事ウイリアムズ藤田 誠)