「キリストに従う」
(マルコによる福音書8:27-38)
ガリラヤでさまざまな病や生活状況により共同体より孤立してしまった人々と出会っていったイエスとその弟子たちの物語がマルコ福音書ではよく描かれています。この孤立してしまった人々はイエスと出会い、癒されて、ある者は自分を追い出したコミュニティへ帰る気力まで回復しました。この様子を弟子たちや周りの人々は見て、「イエスとは一体、何者なのか?」ということが大きな話題となってゆきました。「洗礼者ヨハネだ」と言う人もいれば「エリヤだ」という人もいました。洗礼者ヨハネは悔い改めの洗礼を人々に勧めて、イエスが現れるまでの道を備えた人でした。一方、エリヤは旧約聖書の時代に死なずに天に挙げられた北イスラエル王国の預言者であり、「主の日」という終末のときに再び人々の前に現れると周囲より信じられていました。
しかし、イエスの筆頭弟子であったペトロはイエスのことを「メシア」と告白しました。「メシア」とは油を注がれた王様であり、世の終わりである終末のときに人々を救う存在のことを指しました。ペトロはイエスのことを救い主だと思ったのです。ペトロの告白に対して、イエスはペトロを含んだであろう弟子たちに「ご自分のことを誰にも話さないように」と言うのでした。
イエスがなぜこのような口止めを弟子たちにしたのか?それは、イエスが五千人もの人々をパンとぶどう酒で満腹にしたこと、そして、耳が聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしたこと、このような奇跡を弟子たちやそれらを見た人々がさまざまな人へ出来事のみ伝えることを回避したかったからかもしれません。出来事の背景にある貧しさや苦しみに弟子たちや人々あ向き合わずに奇跡のみ伝えることでますます彼らが自分の思いに囚われて自由になれないことをイエスが憂いたからではないでしょうか。
(執事ウイリアムズ藤田 誠)