「イエスは命のパン」
(ヨハネによる福音書6:24-35)
イエスによって5つのパンと2匹の魚より満腹した群衆はイエスの後を追って、小舟で湖の向こう岸にあるカファルナウムに来ました。そして、再びイエスを見つけるとイエスにパンを求めます。そのときイエスは群衆に言われました。
「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネ6:35)
イエスがご自分の命を人々の罪を贖うために主に献げたこと、つまり十字架に付けられたことと、「死」を終わりとせずに主によってイエスが「復活」させられたことでキリスト者は自分ではどうすることもできない罪より救われてきました。それをふまえてイエスの言われるきょうのみ言葉を受け取るとき、イエスのもとに来る飢えと渇きを覚える人々は自分自身の罪ゆえに飢えと渇きがおさまらない者たちのことなのでしょう。この地上でどれほどの富、名誉、権力があったとしても罪ある人々の飢えを満たし渇きを潤すことはかないません。それは、キリスト者が自分が救われた体験をふり返ることで実感できることであるとは思うのですが、物(情報を含めて)と力ある人々の発言や行いに囲まれた生活をしていると、その救われた体験の思いが一時的に凍結されてしまうようにも思います。
きょうイエスのところに来た群衆はイエスが実際に実物のパンを与えてくれたからということで、イエスとの人格的な交わりによって励ましを受けたという思いが一時的に凍結されたということもあるのかもしれません。もちろん、この物語にいる群衆はイエスの十字架の死と復活を体験していないので、キリスト物が与かっている救いにこの時点では与かっていないということも考慮に入れなければなりませんが、イエスのきょうのみ言葉に触れると、イエスが実際に出会った人(病にある人、差別されている人)が受けた癒しを想い出します。そのような癒しを一時的に凍結してしまうのが物質であり、人間の欲であるということをこの物語は私たちに示しているように思います。それは、私たちの罪ゆえに取り去ることができない現実があり、それゆにイエスは十字架に付けられて死に三日目によみがえられたということもあらためて心に留めたいと思います。
そして、キリスト者が主から求められていることは、人間の飢えと満たし渇き潤してくださる方はイエス・キリストであるということを知らない人々と出会い、「イエスは命のパンです」と自分の言葉と行いで証をしていくことなのだと思います。
恐れず、主に信頼して、主からの招きに応えられますようにお祈りいたします。
(執事ウイリアムズ藤田 誠)