「私たちは何を求めているのか?」
(ヨハネによる福音書6:1-21)
大勢の群衆がイエスのもとにやって来ます。それは、イエスが病人たちになさった「しるし」を見たからでした。その「しるし」がどのように病人に現れたかを聖書は記していません。想像の域となりますが、ヨハネ福音書でイエスによって癒される場面のなかで、エルサレムにあるべトサダの池の回廊で起きた出来事を見てみたいと思います。ここでは38年間病気で苦しんでいて横たわっていた人がイエスに「起きて、床を担いで歩きなさい。」と言われると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだしたと記してあります。これをどのように受けとめるかは読む人々に託されています。実際に病気がよくなって歩くことができたと受けとるか、イエスに励まされことによって前向きに生きられるようになったと受け取とるのか、その受けとめ方は自由です。病気が実際によくなったということでも、また、病気の状況いかんに関わらず、その人が前向きに生きられるようになったということでも、その人の人としての全体性が回復したということは共通して言えると思います。その意味において、どちらもイエスによる「しるし」と受けとめてよいのでしょう。
しかし、きょう、大勢の群衆を前に、パン五つと魚二匹という少ない食糧から、欲しいだけ食糧を与えたイエスの物語において、神のみ心ではなく自分の思いを適えてくれたイエス・キリストの業を「しるし」ととらえるとき、その先にあるのは「恐れ」ということです。この五千人の給食のあと、弟子たちはガリラヤ湖を舟で渡ります。そのとき、強い風が吹いて舟は揺れます。弟子たちは暗闇のなかイエスが湖の上を歩いて舟に近づくのを見て「恐れ」ます。同じ物語のマルコによる福音書では、弟子たちはイエスのことを「幽霊」と思い恐れました。
神のみ心を歩む人はいつでも心が平安で恐れが入る余地はありません。そのような道を備えてくださる神に感謝して歩んで参りましょう。
(執事ウイリアムズ藤田 誠)
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