「恐れに捕らわれた人を救うイエス」
(マルコによる福音書6:14-29)
イエスのガリラヤでの活動はガリラヤ地方の人々にとって一つのムーブメントになっていました。イエスの生きた時代のイスラエルはユダヤ人が救われるための律法があり、その律法のもと、ユダヤ人であっても律法の規定に外れた人(規定の病にある人、悪霊に取りつかれた人など)は救われない人々が数多くいたのだと思います。最近よく使われる言葉で「見える化」というものがありますが、救われない人と救われる人の「見える化」が顕著な時代だったのではないでしょうか。救われない人は「規定の病」にある人や悪霊に取りつかれている人のように症状で判断が可能で、救われる人は神の選民としてのイスラエルの人の「しるし」であった「割礼」で「見える化」されていました。
救われる人の「見える化」の領域を広めたのがイエスであり、そのインパクトはガリラヤ中を駆け巡りました。しかし、救いの「見える化」が広がることで自らの立ち位置に不安を覚えた救いの既得権益の中心にいた人々にとって、イエスの活動は「恐れ」でした。これは、イエスの前に道を備えた洗礼者ヨハネの活動にも当てはまることで、彼による悔い改めの洗礼活動も権力を持っている人にとっては「恐れ」でした。ヘロデ家の人々もイエスや洗礼者ヨハネに対して「恐れ」を持っていました。それゆえに洗礼者ヨハネもイエスも殺されてしまう事実を聖書は伝えるのですが、その「恐れ」を持つ人さえも救ってくださるのが十字架の上で死に三日目によみがえったイエス・キリストであるということに私たちは希望を持ち、また、神さまに感謝したいと思います。
(執事ウイリアムズ藤田 誠)