「教会という舟」
(マルコによる福音書4:35-41)
教会はしばしば「舟」に譬えらることがあります。舟はときに荒波に揉まれるように、舟旅は順風満帆というわけにはいかず、荒波に揉まれたとき、乗船者は非常に苦労します。また、命を脅かされる恐れに彼らは捕らわれます。教会の歩みもそれと同じく、共同体を形成している信徒たちは、礼拝方法や奉仕の方針を巡って教会内での不一致に思い悩んだり、教会と社会を巡ることでは教会の奉仕活動を巡って近隣住民の理解を得られなく、精神的に疲弊してしまうことがあります。
聖書では、例えば旧約聖書においては「神と人」、新約聖書においては「イエスと弟子」、それぞれの関係性が舟を通して語られます。旧約聖書では創世記に記されているノアの物語がありますが、ここで神はノアに箱舟を作らせて、ノアとその家族、さまざまな動物を箱舟に入らせました。そして、地上に洪水が起きたとき、箱舟に入っていたノアたちは生き残ることができました。ノアの心中をこの物語で見ることはできないのですが、ノアはひたすら神の言うことを聞きます。地上での洪水という現象をノアが目の当たりにして、ノアは果たしてどのような心持ちだったのかと思います。
そして、新約聖書では福音書に記されているイエスと弟子たちのガリラヤ湖上の舟旅の物語があります。ここでは弟子たちの胸中がありのまま記されています。激しい突風が起こり、波が舟の中まで入り込む状況で、イエスは船尾で枕をして眠っていましたが、弟子たちは「先生、私たちが溺れ死んでも、かまわないのですか」とイエスに訴えかけます。私たちも同じような状況に置かれたら、弟子たちのように狼狽えて、誰かに、また、神に「何とかしてください」と訴えかけるのではないでしょうか。
イエスは神のみ子として神への信頼を置いていたゆえに、外的状況に左右されずに心の平安を弟子たちに示すことができたのだと思います。もう少し、踏み込んで考えますと、海の波を心の波と捉えるとき、悪霊の力によってさまざまな心のざわつきが人を襲います。そのざわめきを静めるためには、神、イエス、聖霊への信頼を置くことにかかっているのだと思います。
(執事ウイリアムズ藤田 誠)