「聖霊の働き」
(マルコによる福音書3:20-35)
教会暦が聖霊降臨後の期節に入り、イエス・キリストのガリラヤでの宣教の旅が始まりました。ガリラヤ湖畔でアンデレとペトロを弟子に召したイエスはガリラヤでさらに弟子を増やして宣教の旅を続けます。この宣教の旅は悪霊に取り憑かれた人、規定の病にかかっている人、長血が止まらない女性、中風(身体に痺れがある)の人、徴税人などイスラエルの共同体の中では罪人と烙印を押された人々とイエスとの出会いの物語とも言えます。
「朱に交われば赤くなる」ということわざがありますが、このような罪人と烙印を押された人々は共同体から隔離(礼拝に出られない)されていましたので、そのような人々と積極的に出会っていったイエスとその弟子たちは彼らと同じように宗教的に力のある者たちから罪人の烙印を押されようとされていたのだと思います。
それが、今回の福音書で律法学者がイエスに言い放った「あの男はベルゼブルに取りつかれている」(ベルゼブルは悪霊の頭と言われています)「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」という辛辣な言葉に表れているのではないでしょうか。
イエス・キリストの働きには聖霊の力があります。それゆえに弟子たちには神からの約束である聖霊が注がれたのでした。イエスの働きが悪霊と見えてしまうその人の心はどのような状態なのでしょうか。その心には異質なものを遠ざける恐れ、よい働きをしている者への妬み、まだ見ぬ者への不安が心の中を占めているように思います。
弟子たちはイエスによって罪人と烙印を押された人々と出会って、変わっていったのでしょうか?本当に変えられたのはイエスの十字架での死と三日目の復活を通してからにはなるのですが、少なくともガリラヤでのイエスとの宣教の旅路の中で離脱者の記述はないので、自分自身の価値観を大きく揺るがす出来事であったのではないかと想像します。
私たちもイエスのみ言葉を通して自分自身の価値観が揺さぶられます。それが違和感となるときもありますが、その感覚を前向きに受け取るとき、律法学者のように恐れと不安と妬みから解き放たれる機会になるのではないでしょうか。
(執事ウイリアムズ藤田 誠)