「人の子は安息日の主である」
(マルコによる福音書2:23-3:6)
教会暦は聖霊降臨後の期節となり祭色は緑色となりました。緑色は「希望」「成長」「生命」を表すものとして用いられますが、イエス・キリストのガリラヤでの宣教が始まりは、イエス・キリストと出会う人々にとって「希望」であり、自らを「成長」させてくださる存在であり、また、自らの「生命」の源と言うことができましょう。
このガリラヤでのイエス・キリストの宣教物語において、イエスはまず、ガリラヤ湖のほとりでシモンとその兄弟アンデレを召します。その後、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネも召してゆきます。
弟子を召したあと、イエスは汚れた霊に取りつかれた人と出会い、その後、多くの病人を癒しました。このような流れのなかでファリサイ派の人々が「安息日論争」をイエスにふっかけるのでした。安息日はイスラエルの人々にとって、週に一度、すべての働きを止めて、奴隷であった自分たちをエジプトから救い出してくださったことを会堂で思い起こすときでした。そのことの意味を忘れて、安息日での人の立ち振る舞いを細則違反として糾弾するファリサイ派の姿勢こそ、隣人を大切にしない律法違反者であるということを「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」という言葉でイエスは表わしているのではないでしょうか。福音書のなかでイエスは律法と預言者についてしばしば触れます。これは、律法を細則としてではなく旧約聖書全体に記されているイスラエルの民の救いの歴史そのものが律法としてあるということをイエスが民衆に表わすゆえだからだと思います。救済史において「安息日」を救いの出来事を思い起こすときと私たちがとらえるとき、その「安息日」の主は救い主であるキリストであり「人の子」であるということもイエスは民衆に表わしているように思えます。
(執事ウイリアムズ藤田 誠)