「私はまことのぶどうの木」
(ヨハネによる福音書15:1-8)
イエスご自身が「私はまことのぶどうの木」と言うヨハネによる福音書の箇所は、ヨハネ福音書を通して読むとき、それは、イエスが十字架への道を前にして、弟子たちへお別れのメッセージとして語っているように読むことができます。
苛酷な十字架への道を前にして、イエスがご自身のことを「ぶどうの木」と譬え、また、弟子である「あなたがた」がイエスと繋がることで豊かに実を結ぶと譬えられるとき、それの意味することとして、どのような状況下にあってもイエスと共にいるということを弟子たちが感られるとき、イエスを証するという豊かさが弟子たちに与えられる。そのこと自体が祝福であり実りなのだということなのではと思いました。
主のご復活を喜ぶこの復活節において、私たちがこのメッセージを受けるとき、それは、私たちがイエスのことを証して与えられる実というものがさまざまであるということだと思います。ガリラヤでイエスが苦労している人々と出会った出来事としての証であったり、エルサレムにあるゴルゴダの丘の上でイエスが十字架に付けられて死んだが、三日目によみがえられたのだという証であったり。それぞれの実りが理解されず異質なものとして他者に映ることもあるでしょう。そのとき、自分に与えられた実りが豊かに見えなくなるかもしれません。また、他者に与えられた実りに違和感を覚えて、他者を排除してしまいたいという思いに駆られるかもしれません。
しかし、それぞれの実りはただそれだけで尊いものです。好きになれなくても、その存在をリスペクトする必要があります。それが成し遂げることがイエスの弟子になることであり、また、父なる神の栄光を現すものへと繋がるのでしょう。
(執事ウイリアムズ藤田 誠)