「神は世を愛された」
(ヨハネによる福音書3:14-21)
荒れ野でイエスが悪魔から試みを受けたように、私たちも大斎節にあたり、日頃の信仰姿勢をふり返るべく、それぞれ、荒れ野の旅を続けていることと思います。自分の足りないところを見つめるというのは、自分自身を軸にすると大変辛いものがあります。自分中心に生きて、他者を顧みないとき、「あの人に何を言っても無駄ですね」と思われて波がサーっと引くように自分の周りから人が離れる経験をしたことがありますか?
「あの人に何を言っても無駄ですね」という声を直接聞かないまでも自分中心に生きて「孤立」を覚えたとき、それは、おそらく人が離れていっている状況を示しているように思います。キリストの教会に繋がる私たちはお祈りをします。それは、自分が絶対ではなく、神さまを主としてより頼むからです。主である神さまへ「自分の足りないところを教えてください」と祈るとき、神さまは聖書の「み言葉」や人を通して、そのことを気が付かせてくださいます。今日、私たちに「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」という福音が与えられました。神さまは世(すべての被造物)を愛してくださいました。そして、私たちの足りないところを贖うために神さまの独り子であるイエスを私たちのところに送ってくださいました。それは私たちが古い自分に死に、新しい永遠の命の内に生かされるようになるためでしょう。それを思うとき、私は自分の足りないところを神さまへより頼みながら見つめようと思えるのです。みなさんはどのようにこの福音を受け取るでしょうか?
(執事ウイリアムズ藤田 誠)