「イエスの祈りと癒し」
(マルコによる福音書1:29-39)
イエスは出会う人を励まし、また、病にある人を癒してゆきました。励ました相手のなかにはきっとアンデレやペトロのような直弟子もいたのでしょう。また、病の内のある人々を癒したとき、回復した人の中からイエスの一団に加わり仕えていった人もいるでしょう。弟子のシモンのしゅうとめが熱を出したとき、イエスは彼女に近づいて手を取って起こしました。するとシモンのしゅうとめの熱は引き、彼女は一同に仕えたとあります。
目白聖公会で行われている豊島wakuwakuネットワーク主催のフードパントリー活動において、支援されていた母親がその後、フードパントリー活動のお手伝いへ加わるようになっていった事例をいくつか見ました。イエスに癒されたシモンのしゅうとめのように彼女たちは活動の交わりのなかで癒されていったのだと思います。
イエスの癒しには祈りが伴っていました。どのような祈りをしていたのかはゲツセマネでの苦しみ悶えながら祈った「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。」という祈り以外、内容は分かりません。しかし、イエスが寂しい所へ出て行き祈ったこと、それはきっと神さまを愛し、隣人を自分自身を愛するように隣人を愛した深い祈りだったのだと思います。それゆえにイエスと出会った病の内にあった人々はみな励まされて、仕える者へと変えられていったのでしょう。
このことを見るとき、イエスの愛は他者を依存させるということではなく、祈りによって神さまと繋がり、自分自身が励まされて、関わる人々と自立的に繋がってゆけるということではないだろうかと思います。
(執事ウイリアムズ藤田 誠)