「イエス・キリストに従う」
(マルコによる福音書1:14-20)
洗礼者ヨハネは人間社会より離れた荒れ野で神との関係を求めましたが、イエス・キリストはガリラヤという地域で人々との関係のなかで神との関係を求めました。このガリラヤという地域は紀元前8世紀にアッシリアに侵略されて以降、ユダヤ人と異邦人が混在して、さらに紀元前2世紀にハスモン王朝のアリストブロス一世によるガリラヤ占領による再ユダヤ化(割礼を受けてユダヤ人の律法を守ることを異邦人に強制したゆえバビロンにいたユダヤ人たちが入植した)した歴史的経緯より政治的にも社会的にも不安定な状況が長く続きました。
マルコによる福音書においてイエス・キリストはこのガリラヤ地方でさまざまな人と出会っています。彼らはあらゆる意味(経済的にも精神的にも)において貧しい人々でした。皮膚にトラブルがあり穢れとユダヤ人共同体より烙印を押された人々、女性が生理的な事情で出血が止まらないゆえにやはり穢れと共同体より引き離された人、さまざまな事情によりやもめとなり貧しい生活を強いられた人々、悪霊が取りついたゆえに精神的に厳しい状況にあった人々、身体のしびれが止まらない人々など、社会生活上の格差が大きい地域でイエス・キリストはこのような人々と積極的に出会い、そのなかで神さまの大きな支配、いわゆる神の国の形成をこの地で求めてゆきました。
このイエス・キリストのガリラヤでの神の国を求めた活動を福音記者マルコは「福音=喜ばしい知らせ」と受け取り、神さまの「時」が来たことを読者に知らせたのでした。ガリラヤでのイエス・キリストの活動に先立ち、ガリラヤの漁師であったシモン(ペトロ)と兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブと兄弟ヨハネは網を置いてイエスに従ってゆきます。この出来事は「彼らが自分の職業や家族と決別した」という側面で私たちはしばしば見ます。しかし、社会生活上大きな格差があったガリラヤ地方において、その当事者である人々との交わりを、弟子たちがイエス・キリストの導きによって経験してゆく。その経験は神さまの愛と平和を分かち合う出来事であったとのだと思います。
神さまの愛する子として、神の愛と平和に生きる新しい神さまの家族の形成をイエス・キリストの体現する「神の国」のなかで見ることができるようにも思います。
私たちは一人ひとりがイエス・キリストに招かれて従う自由が与えられています。どのように従うのか教会共同体のなかで分かち合えるように主に祈りたいと思います。
(執事ウイリアムズ藤田 誠)