「来て、見なさい」
(ヨハネによる福音書1:43-51)
イエスの弟子の召命物語においてヨハネ福音書で特筆すべきところは、彼らが間接的に招かれてイエスに従っていったという点です。ヨハネ福音書以外の3つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ)ではガリラヤ湖の漁師だったアンデレとシモン(ペトロ)、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネはイエスに「私に付いて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われてイエスに従って行きます。しかし、ヨハネ福音書では洗礼者ヨハネの弟子と書かれているアンデレともう一人の彼の弟子は、洗礼者ヨハネと共にいて、イエスが歩いているのを洗礼者ヨハネが発見します。それを見た洗礼者ヨハネは「見よ、神の子羊だ。」と弟子たちに言い、そして、彼らはイエスに従って行きます。彼らはイエスに「何を求めているのか」と問われて「ラビ-『先生』という意味-どこに泊まっておられるのですか」と尋ねてイエスは「来なさい。そうすれば分かる」と答えます。
今回の福音書箇所においてもフィリポは直接イエスと出会うのですが、ナタナエルはフィリポの言葉を通して、イエスのもとへ導かれます。フィリポが「私たちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。ナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」とナタナエルに言ったとき、彼は「ナザレから良いものが出ようか」とフィリポに疑問を投げかけます。そこで、フィリポがナタナエルに答えた言葉はかつてイエスがアンデレたちに語った言葉と同様の意味のものでした。それが「来て、見なさい」という言葉です。
洗礼者ヨハネとフィリポはイエスと出会ったことを(神の子羊であり、預言者が語った救い主の到来)出会った人に証をして、それを聞いた人は自分の目で確かめて信じるようになりました。それは、実体としてイエスを見て信じたというよりは、自らが「神の子羊」によって罪が赦されたという実感であったのだと思います。私たちはどのようなとき「神の子羊」イエスによって罪が赦されたと感じるのでしょうか?想い巡らしたいと思います。
(執事ウイリアムズ藤田 誠)