「この方が神を示された」
(ヨハネによる福音書1:1-18)
わたしたちは神に似せて造られています。けれども、いくら似てはいても、わたしたちは完全ではありませんから、正しい道を進んでいると思っていても、いつの間にか道からズレてしまいます。このズレが、わたしたち人間の「罪」と言われているものです。「罪」とは、ギリシャ語の原文ではハマルティアという単語です。たとえば弓矢の競技で的を外れた時、審判は「ハマルティア!」と叫んだと言われています。「的外れ」ということです。的を狙って矢を放っても、手元での数ミリのズレが的に到着する頃には大きなズレになります。それこそが、わたしたちの「罪」だというのです。神に向かっていると思っても、完全に正しい道がわからないから、少しずれてしまう。そして、気がついてみたら大きく神から離れてしまうのです。神が完全な正しさだとするなら、その正しさからどうしても離れてしまうのが人間であり、それが罪であるということです。
人間はそのような存在ですから、いよいよ神との距離が離れてしまい、もはや自分たちがどのように歩めばよいのか、どうすれば救われるのかわからなくなってしまいました。それが、イエスが生まれた頃のイスラエルの人々の苦しみです。しかしこの苦しみは当時の人々のみならず、今を生きるわたしたちの辛さでもあります。どう生きれば、歩めば良いのか。この世界は、そしてわたしたちはさまよっています。わたしたちには完全に正しい道など分かりえないからです。しかし神は、さまよい、苦しむ人間の叫びを聴かれました。わたしたちのために御子を遣わし、真理への道を御子により示すのです。
それが、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」という神が起こした出来事です。この世界を創造した神の言、神の意志であり、神そのものである言。神そのものが、わたしたちとおなじ「肉」となられたのです。なぜなら、それは今日の福音の最後にある通りです。
「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」神から離れてしまい、神のことが分からなくなってしまったわたしたちのために、完全なる神が完全なる人として「わたしたち」のところに来てくださったのです。主イエスがわたしたちと同じところに来てくださったから、親しい人のことをわたしたちがよく知ることができるように、主イエスを通して、わたしたちは神を知ることができるのです。だからこそ、主イエスは暗闇で輝く光なのです。
正しさが分からず、さまよう人の間に、道であり、真理であり、命である方がお生まれになりました。「恵みと真理はイエス・キリストを通して現され」ます。
(司祭ヨセフ太田信三)