「主の道を備える」
(マルコによる福音書1:1-8)
イエス・キリストの誕生を待ち望む降臨節のこの日(降臨節第2主日)に神さまから私たちに与えられた福音書箇所はマルコによる福音書の冒頭です。「神の子イエス・キリストの福音の初め」から始まるこの聖書箇所は1世紀初頭、救い主(メシア)の到来を待ち望んでいたイスラエルの民に罪の浄めのための沐浴へと導いていた洗礼者ヨハネが荒れ野に現れるところです。
洗礼者ヨハネはユダヤ全地方やエルサレムから続々と集まる人々に悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。その言葉が『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』という紀元前6世紀頃、南ユダ王国の人々がバビロンに抑圧されて捕らわれた際、預言者イザヤが捕囚の身にあったイスラエルの民に語った言葉です。この時代の人々は「悔い改める」ということを「主に立ち帰る」という言葉で表現していました。つまり、罪によって神である主から外れてしまった自分自身をふり返り、いま一度、主である神のところへ向きを帰るということです。バビロン地方の人々は偶像礼拝をしていたので、バビロンに捕らわれたイスラエルの人々もそれに倣いました。それゆえ、預言者イザヤが語った言葉は偶像礼拝をやめて今一度「私はいる」(出エジプト記3:14)と表された主である神へ立ち帰ろうというものでした。
1世紀、ユダヤ地方を取り巻く状況はヘロデ王が統括しているユダヤをさらにローマが支配するという二重の力(徴税)が働きイスラエルの人々は経済的に貧しく、さらにユダヤ教のなかでもさまざまな力(エルサレム神殿を中心とした)が働き、さまざまなユダヤ人が「罪人」のレッテルを貼られている状況でした。このような状況のなかで洗礼者ヨハネは救い主としてイエス・キリストがこの地上に現れることを預言しました。そして、彼はイエス・キリストが聖霊で人々に洗礼を授けると言いました。この言葉を心に留めるとき、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』という言葉は人間社会の不条理なことを経て弱った自分の心やまた自らの欲望によって隣人を困らせてしまったゆえに孤立してしまった人の乾いた心など、自分の外側も内側も経て神さまからの祝福を感じることができなくなってしまった自分自身を素直にそのまま神さまのみ前に差し出すことなのでしょう。
(執事ウイリアムズ藤田 誠)