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「王であるキリスト」

「王であるキリスト」
(マタイによる福音書25:31-46)
きょうは教会暦A年の最後の主日です。この日は毎年「王であるキリスト」を覚える日です。イエス・キリストがお生まれになるはるか前、イスラエルの人々は王を求めました。その王とはイスラエルと緊張関係にあった諸国を力によって統治したダビデ王のような英雄でした。
しかし、きょうここでイエスが言う王はダビデ王のような力を示していません。その王はこのように言います。
『さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からあなたがたのために用意されている国を受け継ぎなさい。あなたがたは、私が飢えていたときに食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、よそ者であったときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに世話をし、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』(マタイ25:35―36)
王が飢え、渇き、宿もなく、着る物もないとは不思議なことと聞く人は思うことでしょう。現にこの王の言葉を聞いた人々は「いつ、自分たちが王に対してお世話をしたのか?」ピンときておらず、王にいつ自分たちが、王の困っているときにお世話をしたのかを尋ねています。
1970年代ペルーの「解放の神学者」と言われたカトリック司祭のG.グティエレスはこの箇所を通して、このように言ったそうです。
「隣人の秘蹟を素通りして、神に至る道は存在しない。なぜなら、神への愛は隣人への愛の中で以外には表現され得ないからである。」
カトリックでのキリスト教信仰において洗礼、聖餐、堅信、告解などさまざまな秘蹟と呼ばれるサクラメントがあるのですが、彼は隣人への愛の行ないを秘蹟(サクラメント)と捉えていたのでした。実際、カトリックにおいて隣人への愛の行ないが秘蹟(サクラメント)として公認されていませんが、この時代の南米における物質的貧しさにおける富の分配の偏りと政情不安定による弱い立場の人々への抑圧を思うとき、グティエレス司祭は貧しく、飢えと渇きのなかにあり、命の尊厳が脅かされていた人々のなかに「王であるキリスト」を見たのではないでしょうか。
グティエレス司祭が見た光景は過去のものではなく、いまも続いています。私たちはこの日本で見ています。難民申請をしている諸国からの避難民が貧しく、人としての尊厳が損なわれている現実を。また、住所を失ったというだけで、さまざまな保障を受けられずにいる貧しい人々を。キリストに繋がる私たちはこのことを心に留めて祈りと奉仕によって主に仕える者でありたいと思います。すべての栄光は主にあります。
(執事 ウイリアムズ藤田 誠)

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