「油を用意する」
(マタイによる福音書25:1-13)
イエスが生きた時代、婚宴は多くの人が参加できるように夕方から行われたそうです。そして、婚宴の開始に先立ち、花婿は花嫁の家に向かいました。そのとき松明を手にした友人が彼に付き添いました。その後、花嫁の家に着いてから、この一行に花嫁が加わり、彼らは逆に花婿の家へ向かうのでした。当時、宴席は花婿の家に設けられるのが普通だったようです。
イエスがこのたとえを用いたのは終末の到来を人々へ知らせるためでしょう。終末は世界の終わりという概念よりは「神の国」の完成と当時の人々は受け取っていたと思います。新約聖書が書かれたギリシア語における「終末」の語感は「過越し」と近似します。イスラエルの民がエジプト抑留より解放されたことを記念する「過越し祭」はイスラエルの民が神によって救われたことを覚えますが、イエスの時代の人々が「終末」を期待するとき、それは、「過越し」のように救いのステージが進むことであり、この世の終わりではなく始まりと捉えていたことでしょう。その新たな始まりに備えておくことを灯に使用する油で譬えます。油を用意しなかったおとめは愚かな者とするわけです。この油は神から与えられる「霊」を意味しているのではないでしょうか。この世界が始まったとき、神からの「霊」は人を活かす「息」であり、イスラエルの歴史のなかで、彼らが抱いた絶望を希望へ変える「風」でした。油を用意できなかったというのは、神さまからの励ましの「霊」を受け入れられなかった人のことを指します。
この「霊」を常に神さまからの励ましと受け取るため、実はすぐ目の前にあるということに気が付くため、イエスは私たちに「目を覚ましていなさい」というメッセージを送っているのでしょう。
(執事ウイリアムズ藤田 誠)