「誰に仕えるのか?」
(マタイによる福音書23:1-12)
「私たちの日々の生活は労働によって得る対価によって支えられている」このような共通認識を私たちは持っていると思います。しかし、今、私たちの呼吸を可能にしている空気が売り物ではなく全ての人が無料で享受できるものであるように、川から流れる水もそこに住む魚を取って食糧とすることも本来はすべての人が等しく与えられるべきものだったのかもしれません。人間の生活様式が時を経て変化するに伴い、川の水を浄水して管理する人、魚をまとめて捕り売る人などが現れて、水も魚も無料では無くなりました。
今日、イエスは律法学者やファリサイ派の人たちの言うことを「言うだけで実行しない」と批判して、彼らは「先生」と呼ばれることを好むと皮肉を言います。そして、「だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆きょうだいなのだ。・・・あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい」と説きます。
空気も水もそこに住む魚も本来、神さまが管理されているものであり、私たちはその恵みを感謝して受けている人間であることが神さまの望まれることだと思います。しかし、いま、私たちが暮らす世界はさまざまな人が管理することによって社会が形成されています。それによって、頂ける恵みも確かにありますが、人が管理することに集中すると私たちはこの社会の交わりにおいて、キリストではなく、生活に必要なことを管理している人に仕えることに心が向きます。それは、さまざまな力を持つ人へ仕えることになります。「あなたの隣り人を愛しなさい」と言われたキリストに仕えるとき、ガリラヤで生きづらさを抱えていた人々と共にいたイエスを私たちは想い起こして、今、さまざなな事情で生きづらさを抱えている人々と共にいることを私たちは神さまより求められているように思います。
(執事ウイリアムズ藤田 誠)